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「同行28人」。 ※今回で28回目の巡礼という意中川義博大兄の四国巡礼、今回は第23番日和佐の薬王寺から 第36番土佐市の清龍寺までの旅だった。 巡礼は一人遍路が基本である。歩き遍路をしていた時は野宿をすることが多々あった。 今は車、屋根があることが何よりも有難い。 試練のためあえて真夏と真冬に巡っているが冷暖もある。 大げさに言えば家でいるのと同じだ。
今回拝聴したお話の番外編を紹介したい。
高知県初の総理大臣「濱口 雄幸(はまぐち おさち)」の旧邸を訪ねた。 雄幸の生家は高知市五台山唐谷の水口家である。 県東部安芸郡田野町の浜口家から見込まれ養子になったのである。 邸前には「なすことのいまだ終らず春を待つ」との雄幸直筆の碑が建っている。 この旧邸で詩や書を楽しんでいるのだろうか、作品が置いてあり自由に持ち帰りができる。 雄幸の家で・・何とも優雅なことである。

今日の一夜は奈半利川の河川敷と決めた。 投獄された武市瑞山を救おうと立ち上がった幕末の土佐藩の志士清岡道之助ほか 二十三士は反乱者として処刑されたのはこの辺りであろうか・・・
三日月に薄らと照らされ流れる川を見ていると思惑にかられる。 仏の世界では大きな川を隔てた向こう側に涅槃の境地があるとされる。 こちら側は 煩悩や欲にまみれた生死の世界、此岸である。 もしこの川で溺れている人がいれば仏はどうするであろうか? もしその人が罪業が深重であっても仏は助けるであろう。 信心の程度によって差別することはしない。 全ての命は等しくあるのだ。 今いるところは西岸、彼岸ではないか!!
翌日は神峯寺参拝の後、三菱財閥の礎を築いた安芸市の岩崎彌太郎の生家を訪れた。 神峯寺は第27番札所である。 標高450m、急な山道を登った山上にあり、「土佐の関所」また「遍路ころがし」と呼ばれる四国八十八箇所屈指の難所である。
岩崎家は改修中であった。 岩崎家ゆかりの方であろうか、年配ではあるが上品なご夫妻がおられた。 生家を後にしようとポケットに手を入れたが車のキーがない。 ご夫妻は心配され、ボランティアのガイドさん、改修作業員の方、見学に来られていた方など大勢が我が事のように一生懸命探してくれた。 ご夫妻は自らの体験談を語りながら諭すように慰めても下さった。 地元警察にも届けるよう示唆も受けた。 予備のキーを持っていたので事なきを得たが、一期一会とはいえ、親切で心温まる方々と 接したことは今回の旅の最大の出来事だった。 実は・・・ズボンのポケットに入れたつもりがその内側に入れ、足首まで落ちていたのだ。 帰ってから市の観光協会にその顛末を話すと“良かったですね”と大笑いされた。 ご夫妻は観光協会まで連絡していてくれたのだ。
さて、彌太郎の母、美和は家から23km離れた神峯寺へ毎日21日間参拝し、息子の出世を祈願したという。往復45kmしかも険しい山道をだ。 遺言により神峯寺周辺の山林を買い集め寄進したそうだ。
その母が残した岩崎家の家訓
一、人は天の道にそむかないこと。 二、子に苦労をかけないこと。 三、他人の中傷で心を動かさないこと。 四、一家を大切に守ること。 五、無病の時に油断しないこと。 六、貧しい時のことを忘れないこと。 七、常に忍耐の心を失わないこと。
正に「この母にして、この子あり」です。
大兄は「四国霊場・神峯寺の道(仮題)」と題したエッセイの執筆意欲が強烈に起こっているという。乞うご期待!
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一人生活、主夫をするには健康ならば何不自由はない。 料理、洗濯、掃除、整理、修理など何でもこなす。
でも最近は細かい作業や、根気が無くなってきた。 眼が悪くなってきたせいだ。 右目上部右側が緑内障、白内も年相応にある。 アレルギーもある、すぐ疲れるから目薬が欠かせない。
それより問題なのは、別の病気のせいで、免疫力が低下し、 人が大勢いる場は出来る限り避けなければならない。 インフルエンザにかかることは厳禁なのだ。
冬の外出は特に注意がいる。 だから散歩も暖かい時間となる。 でも今冬は特段寒いからどうしても運動量がすくなくなる。 HbA1cも1近く上昇した。
ステップ運動も単純すぎて飽きてしまった。 主夫だけでは4千歩くらいにしかならない。
問題は1日中人と話すことが無い日が多くなってきたことだ。 近所の人とは挨拶程度、話込むことは殆どない。 近くにいる同級生がゴルフ帰りに2~3回/月訪ねてくれるのが一番有難い。 元同僚を招いて週1回、昼カフェをするのもそのためだ。
最近は自分でも感じる程物忘れが多くなった。 痴呆症が心配なのである。
もう一つ、一昨年から始めた「自宅カラオケ」。 JOYSOUNDの家庭用カラオケは安価で24時間365日使えるから便利だ。 難点は同じ映像が多いこと、キーの調整ができないことである。 延平均にして5曲/日位使っている。でも以前ほどではない。
カラオケの効用はどうか? 病状が改善した点はないしはっきり言って分からない。
リビングで使っていたアンプが壊れ、昔使っていた上級のアンプに変え、 小型スピーカーもあったので4スピーカーにしたところ、マイク音声は格段に良くなった。 これでリビングでのカラオケは申し分ない。 記録としてスマホに録音しているが既に800曲を超えた。
別棟のカウンターは食べる楽しみをと音楽だけにしていた。 でも友達が来た時の楽しみにとテレビも見え、カラオケができるようにした。 ミニコンポのスピーカーではあるが、カラオケも十分楽しめそうだ。
正月2日がスーパームーンだった。 今夜はそれに次ぐ満月、ブルームーンである。 しかも3年振りの「皆既月食」である。 ブルームーンが皆既月食となるのは、1982年12月30日以来、35年振りになる。
国立天文台では、 「日本全国一斉に20時48分に欠け始め、21時51分には完全に欠けて皆既食となります。 皆既食が1時間17分続いた後、23時8分には輝きが戻り始め、真夜中を過ぎた0時12分に 元の満月にかえる」と発表している。
日本全国で月が地球の影に隠れてゆき、再び満月に戻る過程が全て観測できるのである。 皆既月食になると月は10円玉のような赤銅色に輝く。 何と素晴らしい宇宙のショーではないか。
でも、今夕から曇り空、日付が変わる頃から雪がちらつく予報。 全ては無理にしても雲の隙間からでもいい見たいものだ。 果たして・・・・
満月は黄卵とよく似ている。 30日からは、七十二候も最後の候、「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」。 春の気配を感じたニワトリたちが卵を産み始める時期と言われている。 二十四節気「大寒」の末候である。
今月11日、さぬき市養鶏場で飼育する鶏からインフルエンザが確認され、 約9万2千羽が殺処分された。 本来なら「大寒の卵=寒卵」を産む鶏達。 滋養に優れ、この卵を食べると一年を健康に過ごせるのだ。 ニワトリもさぞやりきれない気持ちだっただろう。 県は30日、さぬき市の養鶏場から半径3~10キロ圏内に設定していた、 卵や鶏などの持ち出しを禁じる「搬出制限区域」を解除した。
2月4日は「立春」、初候は「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」である。 一足先に「鶏解凍」、養鶏業者もやれやれという気持ちであろう。
献 寿 歳 旦 謹んで新年のご挨拶を申し上げます
一人静かに戌年が幕を開けた。 6度目の年男、何よりも「健(犬)康第一」 戌は、安全・保護・防御・忠誠・献身の象徴である 犬牙相制、世界の平和・命の尊厳が問われる中、 新しい命を守り育む縁起の良い年であって欲しい
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます
平成30年元旦 ブログ、今年も出来る限り継続してまいります どうかよろしくお願いいたします
注1)置物は日本伝統工芸会正会員 溝口堂央作。60個製作した中の1つです。 注2)炭飾りに勝栗、黒豆、コロ柿、田作りの祝い四品
香川県にある総本山善通寺は高野山の金剛峯寺、京都の東寺とともに、 弘法大師三大霊蹟の一つである。 唐から帰朝した空海が父である佐伯善通の菩提を弔うため、807年から6年の歳月をかけて 建立した真言宗最初の根本道場である。 その由緒ある善通寺の管長(法王)を1970(昭和45)~1996年の26年間の長きに渡って 勤めたのが蓮生善隆(はすお・ぜんりゅう)大僧正猊下である。 今大師と言われた名僧です。
これまで幾度も登場願った中川義博大兄は昭和60年頃からの長く深いお付き合いを されていた。思い出は数えきれないほどあると言う。 この程「蓮生善隆猊下の回顧録」としてその一端を頂いた。 ご本人のご了解を頂いたので紹介したい。 七歳の時に母に連れられ、高松から連絡船と汽車に乗り継ぎ、兵庫県の日本海側にある香住に着いた時には、夜になっていました。駅前の旅館で一泊し、次の日はバスに乗って五里ほど離れた山道を走り村岡の長楽寺へ向かいました。 長楽寺は何年か前までは、晩年高野山管長になられた金山さんという偉い方が住んでおられましたが火事で焼けてしまい、その方は高野山へ行かれました。その後に、私の師匠の長谷部琢道師が住職になられたのです。 私が行った時には、庫裏が一軒建っているだけでしたから、長谷部琢道師が住職になられた直後に、行ったことになります。 二、三日して母が帰ることになり、師匠と二人で山上から見送りました。火事の後でもあり、バスの停留所がよく見えました。母の方からも、私たちの姿が見えたのでしょう。 母がバスの中からハンカチを振っていました。それで私たちも山上からハンカチを振ったのですが、その時の母の振るハンカチの白さを今に忘れることができません。 「涙一つ見せぬ元気な子であったが、母の乗るハンカチが見えなくなると、急にいなくなってしまった。一生懸命探したら、押入れの中で泣いていた」と晩年、師匠から聞きました。
長楽寺から五里ほど離れた香住の大乗寺へ師匠に連れられ赴任。大乗寺は円山応挙の襖絵が数多くあり応挙寺とも呼ばれています。(師匠の兄弟子が京都・神護寺へ赴任のため後任) 大乗寺の前には元禄年間から創業の“香住鶴”酒造会社が在り、現会長・福本幹夫氏と幼馴染の間柄になりました。
蓮生善隆猊下が香川県立白鳥病院で平成16年12月31日の大晦日午後7時過ぎ、この世に残された最後の言葉は枕元で見守る人の前で、 「中川さん、おいでますか・・・」 この言葉を最後に12日間、医師も驚く驚異的な気力で・・・。 「サクラの花咲く頃は退院しており、私の車で香住の大乗寺や村岡の長楽寺(但馬大仏)へドライブしましょう」 私は一時の方便でしたがサクラの咲いた4月初め、香住の大乗寺や村岡の長楽寺へ、 ここで仏天の導きでしょうか福本会長と偶然の出会い、亡くなられる寸前の状況を話せばハラハラと涙を流され、「御霊が乗って来ています・・・」と私の車に向い合掌されたのです。爾来、今日まで交流が続いています。 ちなみに長楽寺住職とも偶然お会いでき、蓮生猊下の逸話を良くご存じでした。住職は高野山で生まれ、「父のもとで蓮生猊下が書道を習いに通われ、記念写真にも私も一緒に写っています」。
一期一会の出会いと別れは偶然と思えず、何か目に見えない糸で操られているような気がいたします。
“阿字の子が 阿字のふる里 たち出でてまた立ち還る 阿字のふる里” (弘法大師空海) (生命の源である大日如来の子供として仏の世界から生まれて、この世で世のため人のための仕事をして尊いいのちをまっとうし、また最後には仏の世界に還っていくと詠ったもの)(追補) 中川大兄は短歌、俳句、川柳を奥様と共に楽しまれている。 四国新聞の10月の柳壇のお題は「紙」。見事3席に入選された。
“メモ用紙忘れて妻は買い物へ”
最近、スーパーでメモ用紙片手に買物をする高齢者が多い。 私は”メモ用紙持って行っても買い忘れ”が時にある。 買物にメモは必需品である。 この何でもない日常の行動を素直に表す。頭で考えて作られたものではない。 ごく自然に出てきたのだろう。素晴らしい作品とはそうした物ではなかろうか! 凡人の私には詠めそうもない。 2017/05/17ブログ
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