蓮生善隆 元総本山善通寺法主回顧録

香川県にある総本山善通寺は高野山の金剛峯寺、京都の東寺とともに、
弘法大師三大霊蹟の一つである。
唐から帰朝した空海が父である佐伯善通の菩提を弔うため、807年から6年の歳月をかけて
建立した真言宗最初の根本道場である。
その由緒ある善通寺の管長(法王)を1970(昭和45)~1996年の26年間の長きに渡って
勤めたのが蓮生善隆(はすお・ぜんりゅう)大僧正猊下である。
今大師と言われた名僧です。

これまで幾度も登場願った中川義博大兄は昭和60年頃からの長く深いお付き合いを
されていた。思い出は数えきれないほどあると言う。
この程「蓮生善隆猊下の回顧録」としてその一端を頂いた。
ご本人のご了解を頂いたので紹介したい。



 七歳の時に母に連れられ、高松から連絡船と汽車に乗り継ぎ、兵庫県の日本海側にある香住に着いた時には、夜になっていました。駅前の旅館で一泊し、次の日はバスに乗って五里ほど離れた山道を走り村岡の長楽寺へ向かいました。
 長楽寺は何年か前までは、晩年高野山管長になられた金山さんという偉い方が住んでおられましたが火事で焼けてしまい、その方は高野山へ行かれました。その後に、私の師匠の長谷部琢道師が住職になられたのです。
 私が行った時には、庫裏が一軒建っているだけでしたから、長谷部琢道師が住職になられた直後に、行ったことになります。
 二、三日して母が帰ることになり、師匠と二人で山上から見送りました。火事の後でもあり、バスの停留所がよく見えました。母の方からも、私たちの姿が見えたのでしょう。
母がバスの中からハンカチを振っていました。それで私たちも山上からハンカチを振ったのですが、その時の母の振るハンカチの白さを今に忘れることができません。
 「涙一つ見せぬ元気な子であったが、母の乗るハンカチが見えなくなると、急にいなくなってしまった。一生懸命探したら、押入れの中で泣いていた」と晩年、師匠から聞きました。

 長楽寺から五里ほど離れた香住の大乗寺へ師匠に連れられ赴任。大乗寺は円山応挙の襖絵が数多くあり応挙寺とも呼ばれています。
(師匠の兄弟子が京都・神護寺へ赴任のため後任)

 大乗寺の前には元禄年間から創業の“香住鶴”酒造会社が在り、現会長・福本幹夫氏と幼馴染の間柄になりました。

 蓮生善隆猊下が香川県立白鳥病院で平成16年12月31日の大晦日午後7時過ぎ、この世に残された最後の言葉は枕元で見守る人の前で、
「中川さん、おいでますか・・・」
この言葉を最後に12日間、医師も驚く驚異的な気力で・・・。
「サクラの花咲く頃は退院しており、私の車で香住の大乗寺や村岡の長楽寺(但馬大仏)へドライブしましょう」
 私は一時の方便でしたがサクラの咲いた4月初め、香住の大乗寺や村岡の長楽寺へ、
ここで仏天の導きでしょうか福本会長と偶然の出会い、亡くなられる寸前の状況を話せばハラハラと涙を流され、「御霊が乗って来ています・・・」と私の車に向い合掌されたのです。爾来、今日まで交流が続いています。
 ちなみに長楽寺住職とも偶然お会いでき、蓮生猊下の逸話を良くご存じでした。住職は高野山で生まれ、「父のもとで蓮生猊下が書道を習いに通われ、記念写真にも私も一緒に写っています」。

 一期一会の出会いと別れは偶然と思えず、何か目に見えない糸で操られているような気がいたします。

 “阿字の子が 阿字のふる里 たち出でてまた立ち還る 阿字のふる里”
 (弘法大師空海)

(生命の源である大日如来の子供として仏の世界から生まれて、この世で世のため人のための仕事をして尊いいのちをまっとうし、また最後には仏の世界に還っていくと詠ったもの)

(追補)
中川大兄は短歌、俳句、川柳を奥様と共に楽しまれている。
四国新聞の10月の柳壇のお題は「紙」。見事3席に入選された。

“メモ用紙忘れて妻は買い物へ”

最近、スーパーでメモ用紙片手に買物をする高齢者が多い。
私は”メモ用紙持って行っても買い忘れ”が時にある。
買物にメモは必需品である。
この何でもない日常の行動を素直に表す。頭で考えて作られたものではない。
ごく自然に出てきたのだろう。素晴らしい作品とはそうした物ではなかろうか!
凡人の私には詠めそうもない。


2017/05/17ブログ
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[ 2017/11/08 11:35 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

従兄死す

「秋彼岸中日」、早朝墓参りを済ませ、花を替え、秋果、おはぎを仏壇に供え、
お経を唱え先祖を供養していた。

固定電話が鳴った。携帯からだ。最近固定電話には殆どかかってこない。
取ると母方の従姉妹からだった。長男が亡くなったとの知らせである。

奥さんに先立たれ、高松市内で一人暮らしだったので心配はしていた。
現役時代は土木屋さんでずっと山の建設現場にいた。
退職後は好きな世界遺産巡りで何時も海外に出ていて元気だった・・・なのに。
享年83歳、世間でいう「孤独死」だった。

今や65歳以上の一人暮らしは480万人。80歳以上 は150万人にのぼる。

昨日はお通夜だった。今日、葬儀と初七日、全て付き添うこととしている。

あの世とこの世が最も通じやすい彼岸花も満開である。
お彼岸中に、「彼岸」に旅立った。往って生まれる「往生」することだろう。
残された一人息子、辛いだろうが頑張って生きてほしい。
私も一人暮らし、身につまされる。

南無阿弥陀仏   合掌

[ 2017/09/24 06:09 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

中川大兄、四国八十八ケ所27回巡礼終える

納経帳 
重ね印で真っ赤となった朱印帳。 ご友人から頂いたミニ達磨根付とともに

既に幾度もご紹介した中川義博大兄、この度27回目の結願を果たした。
父親が亡くなったことを機に始まった遍路。当初はこんなに何度も回るとは思っていなかった。母親、友人達が他界するなどし、知らず知らずの内に回を重ねたという。
一昨年は私の病気治癒のため、今年は先に紹介した中川さんのご友人、仏教版画家、
窪田東堂さんが昨年亡くなった供養の旅だったのである。
人間修行のためあえて極寒、猛暑に出立する。1月21日、8月21日に定めたのは窪田さんの月命日、空海の入定に合わせたのだ。

納経帳は重ね印でずっしりと重い。
恭しく持ち上げ一礼、第一番霊山寺から1か寺ずつじっくりと拝観、第八十八番大窪寺まで終わると、赤一色の刺激か目が痛くなった。
病気祈願も入魂された納経帳。真に有難く、思わず胸に抱かせてもらった。

お守りにと「三鈷の松」の葉を大中小と三つも頂いた。空海が右手に持っているものが、
三鈷杵(金剛杵の一つ)です。お札、根付、松・・随分頂いた。感謝ですね。

①60番の横峰寺参拝時に可愛い猿、雉、犬に出合った(8/27ブログで紹介)が、以前にも猿に出合ったことがある。
高知県大月町の海岸に観音様の立ち姿にそっくりな「観音岩」がある。これを見ようと展望台に行く途中で猿に取り囲まれ怖い思いをした。後で知ったがここのお猿は人に慣れて襲うことはないと。横峰寺ではそのことが過ったのです。
幸いに宿泊の主人が釣り人に弁当を届けるついでに船で観音岩周辺を案内してくれた。
海上から見る姿も壮大で旅の思わぬ副産物となった。

②22年前の阪神・淡路大震災の直後、神戸のご夫婦に出あった。家は崩壊したのに「そんなことは大したことではない」と言うのには驚いた。目の前で近所の人が下敷きになり助けてと叫ぶけれど成すすべもなく、ただ呆然とするだけ、直ぐに火災となり、この世とは思えない地獄を見た。希望も消え失せ自殺を考えて四国遍路に来たが、思いとどまり、亡くなった人のためにも生きようと決めた。

③東京都庁に勤めていた方は、怒られるばかりの暗い人生だった。四国の方の暖かい言葉、お接待に触れ感動した。生きる力をもらった。

④最初は歩き遍路だった。遍路道は迷ったり、間違ったりすることが再々ある。その時有難かったのが「道しるべ」。ハンカチや布切れ、ブリキを木にぶら下げてある。その方向に行けば違いがない。初心者には本当に有難い。私も沢山作り、リュックに詰めて分かれ道などにテングサでぶら下げて行った。お接待は何も食べる物だけではない。言葉やこうしたことも入るのです。道すがら色々なことに出くわす。色々なことを考える。そこにドラマがあり、味わいがあるのです。

⑤史跡巡りが好きで巡礼の合間によくする。38番金剛福寺の長崎勝見老僧の話を以前紹介した。(8/27ブログ)
武市半平太を祀る瑞山神社が高知市内にある。生家と夫婦のお墓があるが、生家は今普通の民家となっている。境内には遺詠記念碑もある。
生家の縁に腰掛けると、ここで坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎らが一堂に会し飲み食いし大いに語ったのだろう。竜馬さんは帰る際、何時も玄関横で“立ちしょん”をしていた。
半平太の奥さん富子さんがいつも嘆いていた。老僧との話を思い出す。

同じ高知市内五台山には元内閣総理大臣の濱口雄幸(はまぐちおさち)の生家がある。
雄幸はここ水口家で生まれ、東部、田野町の浜口家に婿養子となった。
何れも質素な造り構えである。
五台山には
「蜩の姿は見えず 夕栄えす」
田野町には
「なすことの いまだ終らず 春を待つ」の石碑がある。
「空谷(くうこく)」の俳号を持つ。

歌人、吉井勇も高知に縁がある。起伏に満ちた75年の生涯の中で山里である猪野々で3年ほど隠棲した。記念館には
「寂しければ御在所山の山櫻咲く日もいとど待たれぬるかな」
の歌碑がある。この歌には感動を覚えた。一番好きな歌である。
高知県下に数か所歌碑がある。

大兄の博識には敬服する。この他いろいろな話を伺った。
全ては書ききれない。事後にして今回はこの辺にしよう。

最後に「遍路は自分の気持ちのため、人間でいたいから」と。
四国八十八ケ所は27回、西国三十三所など全国のお寺を随分訪ねた。
一覧にしておきたいとも語った。

昨日は老人の日だった。老人週間も始まった。大兄は健康的で心身ともに随分と若い。
私と違って若い頃からの心構えが違うのである。
[ 2017/09/16 15:48 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

同行27人

遍路と言えば春の季語、四国遍路は季節の良い春と秋に巡礼する方が殆どです。
その中で「遍路は心の旅と同時に修業の旅だからあえて厳しい環境に身を置く。
だから極暑、極寒に行う」と中川義博大兄は言い切る。

同行27人」、今年で27回目、銀札の遍路人である。
昔は歩き遍路であったが、最近は車と徒歩での「区切り打ち」にされている。
真冬に「発心(ほっしん)の道場」徳島と「修行の道場」の高知東部を、
真夏に高知西部と「菩提の道場」愛媛、そして「涅槃の道場」の香川を回る。

今回は第37番の岩本寺から第66番の雲辺寺まで。
空海の入定日に合わせ21日から三泊四日の行程。
今夏最高の猛暑日と重なり、喜寿を超えての命がけの巡礼である。



88か所
                                    四国八十八ヶ所霊場会公式HP

歴史上の人物や文人の足跡、自然など未知との遭遇の楽しみに加え、
今回はご友人の木彫り師Dさんから旅先での一期一会にと、
達磨根付4個を預かったお土産付の旅でもあった。

「異常な猛暑から、熱中症への不安、タオルで絞れるほどの汗、騒音と暑さに悩まされた
車中泊など今までに経験したことのないような厳しさを味わいました。
全て仏天の御加護で目的を無事達しました。」と第一声。

第38番、足摺岬の金剛福寺の元住職、長崎勝見老僧は土佐一条氏の祖・一条教房に
仕えた公家・飛鳥川家の流れを組む血筋である。
子孫は国学者の飛鳥井深澄(鹿持雅澄)氏、その妻は土佐勤皇派武市半平太(瑞山)の
叔母にあたる。その関係から半平太の写真を所有していたが紛失した。
現存する唯一の写真であった。横浪黒潮ラインにある銅像とは似ても似つかぬ歌舞伎役者を思わす美男子だった。あの写真があればと生前ボヤいていました。

第60番・横峰寺は、愛媛県随一の遍路ころがし。
麓に車を置き、2.2㎞の山道をよじ登ること100分。
境内で20分、下って50分。救いは手持ちの水と木陰だけである。
この深山幽谷で、可愛い猿の子がウルトラCの演技で、雌雉が鳴き声で、
お遍路の連れであろう大きな白犬が渓流に飛び込み水切りの演技で
歓迎してくれた。
我は桃太郎なのか、悪霊退治を仏天が影現されたのでしょう。

達磨根付は101歳になられた第46番・浄瑠璃寺老僧、97歳になられた第50番・繁多寺老僧、朝のラジオ体操で知己となった元県人にDさんの紹介も合わせ、また励ましを込めて遠来の若い方に進呈しました。その喜びに安堵しています。

お話を聞くとご住職、遍路人、自然・・今回も色々な遭遇があったようです。
私にとって何よりも有難いのは昨年に続き病気治癒を祈願下さったこと。
感謝の念に堪えません。

「どんなに苦しくとも無我無心でお参りすれば、仏天は目に見えない奇跡で影現してくれると再確認しました。」と締めくくった。

毎朝10㎞歩き、日頃から健康に留意されている。
空海は「実践の人」であったが、中川大兄もまた「実践の人」である。

巡った分だけ納経帳が重さを増し、宝物になっています。


(追記)
今朝(28日)散歩から帰ると、門扉にペットボトルと手紙が入ったレジ袋がかかっていた。
中川大兄からの物だった。この水のことは紹介しなかったが、横峰寺の登り口に湧水を
ホースで繋ぎ、参拝者にどうぞという“おもてなしの水”なのだ。
山中を工事した際、偶然にも発見されたという。
大兄はこれを持ち帰ったのだ。
冷やされていたので早速一口飲んだ。
縁起物の有難い水である。さすが「石鎚山の名水」、美味い。
感謝です。
[ 2017/08/27 15:15 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

OBとの交流

サイホン

月1度、最終日曜日の朝8時から会社のOB会がある。
OB会と言っても当地、東かがわ市の事業所に勤務した者の集まりである。
私は勤務したことはないが特別に入れてもらっている。
場所は喫茶店である。

以前は15人程度と多くの参加者であったらしい。
高齢化で次第に減少、今は4~5人である。
私が一番若いのである。
1時間程度でお開きになる。
近況や情報交換の場としてはこぢんまりとして丁度いい。
年に2回、懇親会がある。これには20人程度は集まる。

話は少しそれるが、昭和40年代中半から10年ほど、集団力学(グループ・ダイナミックス)を研究。
九大の三隅先生のPM理論を導入したことがある。
従業員の意識調査と上司の評価を行い、その結果を基に管理者のリーダーシップ向上の
研修を行う。
併せて職場単位に小集団を結成し、活力ある職場づくり運動を展開したのである。
当時としては一定の成果を上げたと思っている。

その後組織診断、組織開発へと進めた。
これは個人・集団に葛藤を起し、風土に馴染まなかった。

3分の2が技術者の会社である。メインテナンスばかりじゃ士気は上がらない。
技術集団は物作りや新しい設備建設をしている時は生き生きと輝いている。
経営上、いや経営学としてどのような手法を導入しているのであろうか?

県単位で○友会という組織もあり、年1回の総会がある。
それには退職直後に2回参加したきりである。
セレモニーだからである。今の時節に“万歳”は如何なものであろうか!

同期会は寛解したから参加したいと思っている。
同窓会、大学の研究会サークルも同様、大事にしたい。

横浜在住の高校の同級生からメールが届いた。
彼は、大学時代のクラブ仲間、同期や昔の会社仲間との旅行が今の生活スタイルという。

楽しみがなければ参加する意味はない。
[ 2017/06/25 11:53 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)